日本女の歯を染めたもの 4. お歯黒

かねつけ

 日本においてお歯黒の風習が始まった時期については、資料も少なく確定するのが難しい。最も古い記述は、魏志倭人伝に書かれた、邪馬台国の近くにある黒歯国という国名である。また、いくつかの古墳から歯を黒く染めた人骨が発見されていることから、A.D. 4・5世紀頃にはすでに広まっていたと思われる。東大阪市の石切大藪古墳では、発見された10体のうち、男女を含む6体の歯牙が、その方法は不明であるものの黒染されていたことが報告されている。江戸時代後期の書、関秘録には、「鉄奬、白粉を塗る事は、聖徳太子より始るなり」とあるので、もしもこの記述が本当ならば、お歯黒はA.D.7世紀頃始まった風習なのだろう。
 平安時代になると、お歯黒はすでになじんだ風習として様々な文献に頻出する。清少納言も彼女の枕草子第31段、こころゆくものの中で、「白く清げなる檀紙に、いとほそう書くべくはあらぬ筆して文書きたる。川船のくだりざま。歯黒のよくつきたる。・・・」と述べている。また、堤中納言物語に出てくる虫愛ずる姫君は、親や侍女に文句を言われても、眉毛を整えずお歯黒をせず、毛虫を眺めて過ごしていた。
 平安時代は、既婚の女子、あるいは成人した女子がその証として歯を黒く染める風習であったが、平安後期になると、貴族階級の男子もおしゃれの一環としてお歯黒をするようになり、次第に武家の男子にも広まった。戦国の世には、お歯黒をする男子は公家と今川義元など一部の武家に限られるようになり、男子のお歯黒の風習は身分の高さを示すようになった。そのため、討ち取った首の白歯にお歯黒を施し、官位ある武将の首を討ち取ったかのように見せたこともあったようである。
江戸時代になるとお歯黒は女子と公家のみの風習となり、多くの俳句・川柳に読み込まれ、浮世絵に描かれ(例えば、喜多川歌麿の婦人相學拾躰)、人間関係を作り(初めてのお歯黒をつける” 鉄漿親”、仮親の一種)、地名になった(吉原のおはぐろどぶ)。
 日本以外で歯の色を染める風習を持つ民族を語ることは、日本人がどこから来たのか、という問題に繋がるかもしれない。歯を染める色には、赤と黒があり、赤色染歯は、イスラム圏とアフリカに住む一部の民族が行った。黒色染歯は、日本を含む太平洋・インド洋沿岸の各地に住む人々の間で広く行われた。興味深いことに、大陸民の漢族・蒙古族満州族・韓族等は歯を染める風習を持たない。黒色染歯の方法の多くは、植物+αであり、αとして土や鉄器が用いられた。これは、植物に含まれるタンニンと、土などに含まれる鉄との反応を利用した、Iron gall inkと同じ染色法を意味するのだろう。このように、お歯黒は日本固有の風習ではないものの、その染剤として虫こぶのタンニンを利用したのは日本のみである。